自分のやっていることに対して自信を持ってる人はすごいと思う。
誰もが人から批判されたりしたら、弱気になると思う。そんな批判をもろともせず自分の意見を貫き通すのは簡単なことではない。
やはり尊敬できる人っていうのは、自分自信がやってることに自信や誇りを持ってる。
いや正確には、自信や誇りと言い切るのはなんか違うかもしれない。信念というかその人の支えや原動力になっているものがはっきりしている。
なぜその人は、そんなにも自分自身の行動に対して素直に、自信を持ってできるのか。
それは多分、いまのぼくの中では推測でしかないのだけれど、何に対しても偏見な目を持っていないからだと思ってる。
偏見な目を持つというのは、自分の可能性を狭める。
人が何か新しいことを始めようとする時、多くの場合周りの誰かから否定されることが多い。『そんなんやっても結局無駄になるよ。』とか『そんなんやっても良くないから絶対やめたほうが良い』とか言われて、大抵の人は始めるのを諦めてしまう。
ぼく自身が偏見を持っているのかもしれないが、そーいう周りの人は、良い言葉が見つからないが、すごい人ではないと思う。
人は、誰しも他人より優れている点があると思う。これは、一生のうちに必ず見つけられるかわからない。この自分の長所を見つけることは、人生の課題であり、人生を楽しく豊かにするためにとても重要なことだと思う。いわゆる成功している人っていうのは、うまく自分の長所を利用している人なんだと思う。
いろんなことに挑戦するということは、そういう可能性を秘めている。
そして何かしら自分に似合っているものを見つけた時、自分自身に自信が持てるんだと思う。
自分に自信を持つためには、いろいろなことに挑戦して自分に合ったものを探すのが大切。
自信に満ち溢れている人はカッコいい。人生をキレイに生きている気がする。
何か知らんが、そーいう人はみーんな本を読んでる。本からいろいろな情報を取り入れてるのかな?本からの情報は雑誌やテレビに比べて高級な気がする。
やっぱり読書は大事。
カテゴリー別アーカイブ: 考え事,気づき
幸福方法論(仮)
ご無沙汰してました。
最近友達と話してちょいちょい話しててイラッとくることが多い。
自分がただ単にストレスがたまっていて無意識にイライラしてるのかなぁ‐、もうちょっと謙虚にならなければ
人には触れてはいけない部分を誰しもが持ってると思う。
もし誰かがその領域に踏み込んできたらその人はどうするだろうか。
他人のことを100%理解することは不可能だ。ましてや自分のことを完全に分析できている人すらいないと思う。
人って多くの場合他人が思っている以上にすごいのかもと最近思っている。
日本人の特質なのか思っていることを口に出さないので、その人に対する周りの評価が低いのではないかと。
その人の考えていることを理解するなんてなかなかできるはずないのに、人って簡単に他人の評価を決めてしまう。しかも人は自尊心のためか他人の欠点ばかり探してしまいその人を低く見る。
ぼくが一番気になってるのは、自尊心が高ければ高い人ほど自分の意見発言に自信を持っているから周りの人もその意見発言に納得してしまう場合が多いということ。また大抵そういう人は人の意見に耳を貸さない。
そんな人がいたらどうしようか。
自分は、人のことを思いやれる優しい人間になりたい。誰もが楽しくいたいと思ってるはず。
世の中には2種類の人間しかいない論(仮)
冬は嫌いじゃない、むしろ好き。
冬はいろいろ考え事が多くなる気がする。
冬に生まれたからか、夏より断然冬派。
寒がりだけど冬のほうが好き。
大学に入って、いろいろな人に会って今まで自分が思っていたことが、少しずつまとまって来た。
前にも書いたかもしれないけど、世の中に2種類の人間がいると思ってる。
『考える人』と『考えない人』。
この明確な境目はわかんないけど、その人を観察してると何となく感じる。
それは勿論勉強ができるできないは関係なくて、
何となく自分が今行動している理由を常に理解しているというか、考えてる人が考える人だと思う。うまく書けないけど、多分その人は目先のことにとらわれていなくて、常に大局的に先のことをアンティペーションしてるんだと思う。あと考える人は、かなり空気が読めて大抵面白いこと、楽しいことが好き。
今までの人生で、多分まだ5人くらいしか出合ってない。
正直ぼくが考えない人と思ってる人は、何かを勘違いしてる。多分その人の中にある大前提である何かが絶対的に正しいと思いこんでいて全く疑っていない。
勉強ができる人や人から頼りにされている人は自分は頭が良いと勘違いしやすい。
例えば、勉強ができる人っていうのは勉強ができる=頭が良いという方程式が成り立っている。あくまでも勉強ができるというのは、科学的には人より記憶力が良いとしか言えない。それをあたかも勉強ができる人は人より優れていると思ってる(無意識に)。人から頼りにされている人の場合、確かにその人はぼくが考える考える人である可能性が高いが、周りの人が考えない人ばかりの場合は別。考えない人の特徴として人に流されやすいというのがある。ただ単純に何か特定のことが人よりできたとしたら、それだけでこの人は頼りになると考えてしまう。その状態に1人でもなるとその周りの人間も流されて、頼りにされる考えない人が生まれてしまう。
そこから考える人になるかもしれないが、大前提を信じたことしかない人がその大前提を覆すのは難しい。なぜなら大抵前提を覆したことない人は、【大前提は正しい、間違いない】という前提を覆したことがないからだ。
実際自分が考える人になれてるかは分からない。だけどそんな人間でいたいとは常に思ってると思う(無意識のうちに思ってると思い込んでるだけかもしれないが)。
どっちがいいかはわからん。
もしかしたら、ぼくが『考えない人』と思ってる人はぼくが考えてることより、もっと高い次元で物事を考えてるのかもしれないし。
実際、人が考えてることなんかわからんし、他人が自分と同じような感じでしゃべったり、考えてるのかすらわからん。自分以外の人間は本当に実在してるのかとか。実は自分しか存在してないのかも、とも思うこともある。
また人生楽しく幸せに生きるには全く関係ないとも思ったりもする。
むしろこんなこと考えること自体マイナスなのかも。あーあたまわりー。
『から返事』論
最近自分の行動の意味について考える。なぜ自分はこう行動したか、または行動しなかったか。
から返事論はその一つ。
バイト中に上の人に指示されたときに、から返事してるなぁとふと思った。
そもそもから返事の意味とは、【人の話をしっかり聞かないで、いいかげんにする返事。うわべだけの返事。】と辞書には書いてある。
いつからか分からないけど、自分の面倒くさがりの性分からか適当な返事を親にしていたのを思い出した。親に『宿題はやったの?』と聞かれれば、やってなくても、『うん』と返事するといった感じ。実際には、『うん!』と返事するとやってないのがばれたときに面倒なので、保険をかけて『う~ん』よりの『うん』と返事していた気がする。多少脱線してしまったが、から返事の始まりはここだったと思う。
そのうち学校などで先生や友達に頼まれごととかしたときにもから返事し始めた。その頼まれごとが些細なことならいいが、ここで結構重要な頼まれごとだといい加減な返事だと、『ちゃんと聞いてるのか?』と言われるわけだ。
ここからがから返事論の本題なのだが、から返事をあえてちゃんと人の話を聞いていてもするのがいいっていう理論。
重要なのは、まず、あたかも聞いていないように返事することで、本当にコイツ聞いてるのか?と思わせる。次にしっかり言われたことを実行すること。
元気よく返事すればするほど期待されるし、実行しないと言われたことも出来ないのか!と下手したら怒られる。聞いてるふりして、聞いてないのが一番タチが悪いのである。
逆にしっかりやれば、意外としっかりやってくれてるな、と始めで『聞いてるのか?』と疑いから入ってる分ハードルが低いのである。
そのため、から返事したほうが信頼感が得られやすい(実体験)。信頼感はデカい。もう一度言うが信頼感が得られやすいのである(実体験)。
ちょっと人の心理を逆手にとってコスイ気もするが、人とのコミュニケーションはそれだけ重要なのでいいかと。
その人のキャラクターにもよるから参考ならんかもしれんが、
参考になれば。
好評ならパート2も書きます。
取捨選択
何事も頑張ってやっていればいろんな面で成長していけると思っていたけど違うかな-って思った。
やるべきことをしっかり取捨選択をしなければ、どんなに頑張ってやっても自分にとっては意味のないものなんじゃないかと。
大学に入ったからには、しっかりと知識をつけて成長したい。
考えの個性
自分の意見に賛同してくれる人がいるかいないかはものすごい大きい。
自分の意見は結局のところ大衆の中の一意見でしかない。
でもその意見に賛同してくれる人がいるとちゃんとしっかりとした意見として見られる。
自分の周りにいる人間によって自分の意見は良くも悪くも見られるということ。
やっぱり周りの友達の存在は大きい。付き合う友達は選んでしまう。
でもそうすると偏った考えを持つ集団になってしまうかもしれない。
いやさらに大きなくくりの中の意見として見られるから別にそれはそれでいいのか。
逆にそうゆうのが日本人の偏った考えとかになってるのかもしれないし。
その考えを覆す考えも偏ってるのかもしれないな-。
偏った考えでもそれはそれで個性的でいいのかもしれないと最近ちょっとだけ思う。
結局は自分次第
楽しいか楽しくないか決めるのは。
満足できるかどうかも。
自分が楽しいのが一番と言っちゃうと、人に迷惑をかけていいみたいに聞こえてしまうかもしれないけど、人に迷惑をかけないのならどんどん自己満足していいと思う。
今の自分に満足してたらいつまでも成長できないとか言うかもしれないけど、
ぼくは今自分が楽しいのならそれはそれでいいと思った。
人生楽しいのが一番。
羨ましいということ
大学生活を送るにあたって、いろいろなことがありすぎて最近なにをしたらいいのか分からなくなっていたけど、なんとなくわかったのかもしれん。
大学には、いろんな人がいろんなことをやってるけど、その行為にはどれが良いとか悪いとかないんだということ。
就活のときのためにコレをやっといたほうがいいとか、単位をとるためにはだれだれ先生の授業が楽だとかなんかこうするのが大学生らしい生活だ、みたいななんか上手く言えないけど、なんか型にハマってる気がする。
いや、型にハマってるのが良くないというわけではなくて、もっといろいろな世界があるような気がして、あまりにも抽象的で漠然としすぎてて自分でもよく分かんないんだけど、もうちょっと周りを気にせずに、自分の好きなように動いたら良いじゃんと思った。
将来に対して損得で考えるのではなくて、それ以外にももっと充実した大学生活があるんじゃないかって思った。
周りの環境とかいろいろあるのかもしれないけど、
根底にあるのは、自分は自分であって、自分の好きなことやりたいことをやるのが一番楽しいということに当たり前だけど改めて気付けて良かった。
落ちたことについて考える
恥ずかしい話だが、正直心の中で少しながらではあるが、受かると思っていた。
センターでの不利な分があるにもかかわらずだ。
2次の出来も正直良かったと思う。
何が悪かったのか分からない。センターの分をカバーしきれなかったのか。2次の数学で大きな計算間違いをしたのか。英語で読み間違えていたのか。物理もどっかで勘違いしていかのか。それともただ易化してて自分が予想している合格ラインより実際の合格ラインの方が上なのか。もしそうだとしたら、これは力不足に他ならない。
前期試験終わってから遊びまくってたから、神様が自分に罰を与えたのかもしれん。よくわからん。
成功すると何も考えず、嬉しいで終わるが、失敗するとなぜ失敗したか考える。なぜ成功したかはあまり考えないと思う。
自分を肯定しているようでなんか嫌だが、失敗から学ぶことは多い。
失敗は成功のもとっていうのはそういうことか。
日記にも書いたけど、今日大学に合格発表を見に行った。どっきどきだった。掲示板に番号が張り出され、自分の受験番号を探したけど見つからなくて、他の学部のとこも見たけどなくて、ぼくの後ろではラグビー部の人たちが合格した受験生を胴上げしてた。まさかのまさかで帰り際にぼくも『どうでしたか?』と聞かれた。『だめでした』と言った。なんか余計にむなしくなった。
なんで今自分がこういうこと書いているのかも、何を書きたいのかも分からない。かなり乱文だ。
そーいや部活の集まりがあるの忘れてて、すっぽかしてしまった。楽しみにしていたが、結局行かなかった。(´・ω・`)。とりあえず英語は音読を再開しよう。
かなりきけんなにっき。
ちょうど去年の今日の日記に、自分が勉強したいことよりとりあえずレベルの高い大学に入りたいみたいなことを書いてたのを思い出した。
(去年の自分の意見に対して)
やっぱ偏差値の高い大学や知名度の高い大学のほうが普通の人からすごいと言われるというのは、確かにあると思う。
学部とか学科までは聞かれないし、聞いた噂では入試において偏差値が昼間部に比べて圧倒的に低い夜間部でも、就職するときには昼間部の人と変わんないとか、、、、
ホリエモンも東大を狙うときに一番入りやすい学部を選んだとか。
そう考えると偏差値の高い大学の穴場を狙うべきだなと思う。
しかし、穴場を狙うのもありちゃありとは思うけど、その選択に自分の望む先はあるのか、多少なりとも関心があるならまだしも、まったくないなら大学をやめるかもしれん。
あともう1つ思うのが偏差値だけがすべてじゃないなということ。
正直な話(かなり危険な話かもしれない)、スポーツにも向き不向きがあるように、勉強にも向き不向きがある。もともとできる人や、人よりも単純記憶が優れてる人は、普通の人よりも効率良い勉強ができる(サヴァン症候群とか言われる人もいるし)。俗にいう天才とか秀才とか言われる人は、極端な話、ある人は1年かけて理解したり、覚えたりすることをそういう人は1ヶ月でできてしまうかもしれない。
そう考えると、
勉強ができる=頑張って勉強した
という方程式はいつも成り立つわけではないと思える。
でもやっぱり一流大学を出ていると、その肩書きだけで一目置かれる。
それってやっぱり当たり前だけどおかしい。
確かに勉強ができるほど、自分の意見をしっかりもってて素晴らしい人は多いと思う。
でももともとできる人はさほど努力しなくても一流の大学に入ることもあるということ。もちろんその大学に入りたくて一生懸命勉強したけど落ちちゃった子もいるはずだ。
話を広げると、プロセスはどうであれ一流大学に入ってしまえば、周りの人からちやほやされるし、ある程度の将来は保証される。
仮にその人が努力してないとしてもだ。
大学受験というごく限られた分野が得意な人はそれだけである程度の社会的地位はゲットできる(幸せになれるかどうかは別として)。
頭良い人は勉強してなくてもできるとは言わない。もしそれを言ったら、一生懸命頑張って勉強している人に失礼だし、下手したら非難されるかもしれない。それに言わないで、努力して良い大学入ったって言ったほうがすごいなぁと思われるわけで、
頭良い人っていうのは言わないほうが良いことだらけだと気付いてるわけだ。
そう考えると偏差値は気にするのは可笑しな話だと思う。
でもこんなの一流大学に対する妬みや嫉妬だ、と言われたらそれまでだし、こういう書くこと自体偏差値を上げようと頑張って勉強している人全員(ぼくもか、、、)に失礼かもしれん。
書いてる最中にこんなこと言及してもしょーがないなとも思ったが、将来自分が見返すかもしれんし、やっぱりアップしとこと思った。