なぜかしらんが友達や先輩と就職活動の話をする機会が多い。
いろいろな人からいろんな話を聞いて今ぼくを思ったこと。
就職活動はどことなく大学受験に似てる。普段なにげなく遊んでる友達でも人によって考え方が顕著に表れる。自分と違う意見には、反対したくなるがそれは言うことはできない。その人がその選択をしたのはきっとそれだけの理由があってぼくがなにを言ったところで結局それは人ごとにしか過ぎない。
非常に難しい。
ぼくがどんなに自分の意見を正しいと思っていても、それは一意見でしかない。それを人に押し付けるのは良くない。人それぞれ自分の考えが正しいと思ってそれを行動に移している。それを否定するのは良くない。しかしながら「こーゆう考え方もあるんじゃないの?」と提案
するべきだと思う。きっとそれがその人のことを本当に思いやるということではないかと思う。
就職活動にもいろいろな考え方がある。極端かもしれないが、とにかくどこでもいいから就職したい、または自分の信念は曲げないで就職したい。どれが一番とかはないはず。でも自分が納得できるかが大切なのは変わらないと思う。
大学受験に似ているっていったけど、大学受験以上に就職活動は周りの目が気になる、いや気にしなければならないのかもしれない。大学はどこへ行ってもその結果は目に見えにくい。というのも、良い大学に行く目的はおおよその人が就職のためであるからだ。あくまでも大学は中継地点。言うなれば、就職する企業はひとつのゴール地点だ。親のために安心させるために良い企業に就職したいという意見も多くあるだろう。これは一部を除いて大学受験とは違うと思う。それが大学受験以上に周りの目を気にしてしまうということだと思う。
最近就職生や大学受験生がいろいろなことで取り上げられている。それは、自殺であったり、試験問題流出の問題などである。ぼくがつめたい人間だからかもしれないが、テレビのニュースなどで聞くと、「うわー大変だなー」とか「そんなカンニングとかすんなよ」とやはり人ごとのように感じてしまう。しかし良く考えると、そんな社会環境に対してとても悲しい気持ちに駆られる。結局なんのために就職するって食べていくためである言い換えると生きるためじゃないのか?もちろん、仕事にやりがい生きがいを求めるとかもあると思うけど、一番の理由は、生きるためじゃないのか?
だからといってぼくは生きなければいけないと言う気もないが、なにか悲しい。そんなんなら就職活動なんてしなくていいじゃんと思う。アルバイトでもひとりで生きていく分にには生活できるのに、それほどまでに就職しなければならないっていうそーいう社会環境にうんざりする。こんなこと書いてもただ世間知らずだなー何にも考えてないなーと思われるかもしれないが、もっとなんかあるだろって思う。ちょー楽観的な考えかもしれないが、最悪、適当にかわいい子が働いているバイト先を探して、そこで働いているだけでも十分楽しい人生じゃないのか。死ぬにしてもサラ金とかで借りれるだけ金借りて、キャバクラやら風俗やらで金使いまくって、自己破産してそれでも死にたいと思うんならそれしてから死ねばいいじゃんとか思う。きっとなんかしらあるって。ぼくはきっとそこまで追いこまれたことないからかもしれないが、そんなのん気なことを思う。あーちょーどーでもいーこと書いてすっきり。
カテゴリー別アーカイブ: 考え事,気づき
アイドル論
今世間はAKB48ブームですね。
ぼくもAKBが好きですが、CDやらポスターやらはなんにも持っていません。唯一持っていると言えばセブンイレブンでお菓子を買って貰ったクリスマス仕様のカードぐらいです。
世界は広いもので同じCDを何十枚も買う熱烈ファンがいるらしい。
なぜ何十枚も買うかというと自分が推しているメンバーと握手するための券をゲットするためだとか。
なるほど。でもその気持ちはわからんでもないです。僕も昔からアイドルが好きでよくあったんですが、
人間なんでものめり込んでくるとフィルターがかかってきて、なんでも都合良く解釈してしまうもんですね。ぼくも中学時代、超絶に若槻千夏にハマっててよく言っていたのが『若槻千夏は絶対性格良い論』に始まり『若槻千夏はオナラしない論』『若槻千夏はウンコしない論』『若槻千夏は処女論』『若槻千夏は乳首ピンク論』『若槻千夏は整形してない論』などのことを本気で思って、周りの友達に熱弁していました。
つまりアイドルは完璧な存在という既成概念があるがゆえに周りが見えなくなることもあるわけです。
ですがぼくも大人になるにつれて冷静になり周りが見えてきましたが、
『若槻千夏は絶対性格良い論』『若槻千夏は処女論』『若槻千夏は乳首ピンク論』『若槻千夏は整形してない論』というのは変わらず本気でそう思っていたんですが、
変わったのが
『若槻千夏のオナラはしない論または若槻千夏のオナラは香水論』
『若槻千夏はウンコしない論または若槻千夏のウンコは食べれる論』
ということ。
百歩譲ったとして仮に若槻千夏がウンコしたとしても、そのウンコは食べれると思っていたわけです。
さすがに今はそんな処女であるとかウンコしないとかは思わないようになりました。
最近はむしろどこを見ても良いように思います。
たとえ処女じゃなかったとしても逆にその子の得意技や四十八手が見たいと、
たとえ整形していたとしても逆にそれだけ努力したんだ努力家だなと、
たとえ乳首が黒かったとしてもそのリスクを背負ってまでグラビアやっているんだなと、
たとえ性格が悪かったとしても、逆にそのツンデレ感いいかもしれないと、
そう思うようになりました。
これみておそらく読んでいる人は結局フィルターがかかっているじゃないか!というかも知れませんが、そこまでくるともう話はアイドルに留まらず、哲学的な話になってきて、
逆に問いたい「世の中に本当に心の底から真っ黒な人はいると思いますか?」と。
仮にいたとしても、そんな悪い人がこのアイドル戦国時代に表舞台に出てこれないんじゃないかと。
またこの話は、AV女優や風俗嬢肯定論にも繋がってくるけど、長くなるので割愛。
詰まるところ、ぼくが言いたいのは男女問わずアイドルって素晴らしい職業だということです。
自己中心的、そして自己満足
何をやるにしても、自分という存在で物事を考える限り、その見方は自己中心的になるだろう。
いわゆる世間一般で言われる自己チューと呼ばれるのは、周りの人のことを考えず自分が良ければ良いという考えのことだ。
もちろん自己チューは人から嫌われる。
嫌われてもいいなら、それはそれでいいと思うが。
自己満足は、自分のなかで満足することをいうが、
自己満足は、自分が満足したいがために人に迷惑をかけることではない。
それは自己チューになるだろう。
誰も自己チューになりたい人はいないと思う。
でも誰しも、世界が自分を中心に動いてほしいと思う気持ちも分かる。
確かに、人の気持ちを他人が本当に理解できるとも思えん。むしろ他人の自己の存在すら疑いたくなる。
だけど人間社会というコミュニティにいる以上、人のことを考えられない人は嫌われる、というより淘汰されていく。
だから人間社会で生きるためにと書くのも、コミュニティで生きなければいけないと押しつけているようで歯痒いが、人の気持ちを考えられなければいけないと思う。
超能力者でもない限り、人の気持ちを悟るのは不可能だ。でも理解してあげようとすることはできる。この理解してあげようとすることが大事。
人は人と話しているときに、言葉面だけ追ってわかった気になってしまう。
また自分の考えを押しつけたいがために人の話に耳を傾けないことがある。
できるだけ人の気持ちを考えれる人になろう。
つまり、自己満足はしてもいいが、自己チューであってはいけない。
どれだけ自己満足はしても良いと思う。でもそれは自己満足だけのために、他人に迷惑をかけていけない。
迷惑をかけないっていうのは、人の気持ちを考えること。
量より質
たいせつなことを忘れていた。
人に好かれる前に、自分を好きになるってこと。
否定するだけの人生なんてつまらない。
ただ面白い人間になるのもなんか違う。
人を理解して受け入れることが、一番たいせつなんじゃないのか?
人からつまらないと思えることでも、まず自分がおもしろいと思えることをやるべきなんじゃないのか?
これは理想論なのか?
たまにいろんなことを合理的に考えるのと主観的に考えるのがごっちゃごちゃになる。
合理的に考えるべきか。主観的に考えるべきか。どちらが幸せなんだろうか。
「満足した豚よりも、満足しない人間のほうがよく。満足した愚者よりも、満足しないソクラテスのほうがよい。」
有名なミルの言葉。
質か量か。
自分の良いと思っているところは、忘れてはいけない。
はたち2010夏
夏休み入ってから全然ブログがかけてないー。
20歳の夏休みだぞー。
といっても特にすることもない悲しい現実(笑)。
充実ってなんかなーって最近よく考える。
よく忙しいっていうのは良くない、忙しいではなく充実してるっていうべき!みたいなこと言うけど、忙しいと充実は違うだろって思う。まぁそれは気持ちの持ち方のことを言っているんだろうけど。
忙しければ、充実してるとは思わん。
じゃあ充実ってなんやねん。
友達がたくさんいて、毎日楽しく(楽しいっていうのも抽象的な言い方ではあるが)過ごしていれば充実してるのだろうか。
結局、人それぞれだから、それで充実してるって言う人もいるだろうが、ぼくは多分それは充実してるとは思わないと思う。
お前なに様やねんって言われるかもしれないが、そう思うんだからしょうがない。
じゃあぼくにとっての充実とは何かについて考えたけど、それ以上は分からなかった。
でも逆にそれが分かったら、きっとぼくが納得できる人生を送れるのかなーと思った。
話は変わるが、ぼくは人と比べて理屈っぽいんだとつくづく感じる。たとえば、人が爆笑している場面で意外と冷静になってしまってその場の雰囲気になじめない。また何か友達がつらいことがあって泣いていたとしても、やさしい言葉をかけてあげることはできないと思う。頭ではこうするべきってわかっていても、自分を含め人を客観視してしまうがために、自分が正しいと思う答えを考えてしまう。良く言えばいつでも冷静であるが、悪く言えばただの冷徹な人間だ。
ただ自分をそう思う反面、映画を見たり、本などを読んで泣くこともある自分をちゃんと感受性をもった、人間っぽいなとも思う。
自分を特別な人間だと思うのは、傲慢かもしれない。
よく人と同じことをしていては、いつまでたっても成功しない、というが、それが良いことと決めつけてしまうのはいけないのだろうか。
成功したいと思うのは、誰しもが思うことではないのか。
そこらへんが最近ぼくの中で、胸の奥でもやもやしている。
そんなん成功してから考えろやっていう話。
どれだけ本を読んでも、分からないことは多い。
たいていの本が、ありきたりことしか書いてないと最近感じる。
キレイごととは言わないが、ある意味人生を豊かにするセオリーみたいなのが書いてあるだけだ。
この前、知の巨匠と呼ばれる松岡正剛が言っていたこと。
「読書とは遊びだ」
さすが。ぼくはこの言葉に頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。
ぼくは正直それほど読書が好きではない。成長するためには、読書が不可欠だと思っていた。それが間違いとは思っていないが、結局なにをやるにしても自分にとって幸せなことかどうかが重要だと改めて思った。それは読書も例外ではなくて、我慢して読書するくらいならしないほうがいいのかもしれない。
それよりも自分にとって一番楽しいことはなんなのかということが重要。それはテレビゲームでも、ギャンブルでも、バンドでも、勉強でも、漫画でも、アニメでも、テレビでも、AKBでも、Perfumeでも、風俗でも、カメラでもなんでも良い。読書もその一つ。
ただ読書が良いことといろんなところで言われるゆえんは、自分の世界の広げてくれるからだと思う。もちろん想像力が養われるとかあるけど、一番大切なのは、読書することでいろんな分野を知れるからなのかもしれない。
理屈じゃない
理屈だけでは、ロジックだけでは、説明できないことがあると最近よく感じる。
これは言葉で表すのは非常に難しい。
一般論ではなく、人それぞれによって考え方が全く違う。
人は育ってきた環境によって大きく変わる。
その中で人と違った考え方、感性が養われる。
この考え方や感性でだした結論は、理屈じゃ説明できない。
たまに、明らかに自分とは全く違う感性をもった人に出会う。
なんというかすごい衝撃を受ける。
その人の考え方を否定するわけでも肯定するわけでもない。
ただただ衝撃を受ける。
このような衝撃を受けるのは、すごい良いことなんだと思う。
いわゆる、良い大学に行くほどいろんな人がいるというのは、このような場面に出会うことが多いからではないかと思う。
それは多分、良い大学に行く人ほど洗練された環境で過ごしているからだと思う。
なぜ良い大学に行く人ほど洗練された環境にいるか?ぼくの考えは、いわゆる偏差値の高い人ほどいろいろな物事について考えている。自分の人生もしかり。そんな人が親になったら、周りの意見に流されない環境を与えるだろう。なぜなら人の意見に流された人生なんて面白くないからだ。それが洗練された環境だ。
いろいろ話が脱線したが、だから良い大学に行くほど自分とは違ったいろんな考え方をもった人に出会えるんだと思う。
全然まとまりのない文章になってしまった(笑)
この日記もつづいてるなぁー
なんだかんだでこの日記も丸3年以上続いてる。まさか高3で始めたときには、こんな大学二年になっても書いてるとは思わなかったなぁー。良いこと良いこと。
いまでも時々昔の日記を見返す。
昔の日記は恥ずかしいことかいてるなぁー。
若い若い。
いつからだろうなーこんなに物事について考えるようになったのは。
陸上やっていたときのことは、今でも思い出す。あの時は頑張ってたよなーみたいな(笑)
おそらく高校の2年生ぐらいから考えるようになったんだと思う。
中学から陸上やってて、ずっと勝てないチームメイトがいたんだけど高校もそいつと一緒でずっと同じ練習やってんのに、なんで勝てないんだとか常に思っていたんだけど、気づかない振りしてて、そーいう努力の壁というか才能というかそー言うものに対していろいろ考えていた気がする。もちろんそいつも努力してたんだけど、一回も勝てない(いや一回だけ中三のときに勝ったかな?笑)。ずっと二番手。そんで高2頃にそんなことを考え出して、練習もいやになってくる。進学もある。このままずっと陸上やってていいのか?という迷いがあってそのころに悩んだ挙句出した答えって言うのが、三年の総体で引退っていうもの。その決断からおそらく物事についていろいろ考え出したんだと思う。たぶんその決断がずっと不安だったっていうのもあると思う。
ホント人生って難しい。あの決断で人生が大きく変わってしまった。別にその決断を後悔しているわけでもなければ、今の自分に不満があるわけじゃない。なんつーか人生は常に紙一重。ずっと仲良くしていた友達でも、たったひとつの出来事で疎遠になることもある。逆に高校卒業してから仲良くなる友達もいる。小学校中学校からまだ仲良い友達もいる。そんな些細なことでまったく人生が変わる。本当に面白い。
日記はこれからも書いていきたい。
そんで前に書いたかも知れんけど、そのうちこの日記のテーマ別になっているぼくてつ、気づきの部分でまとめて論文っていうか、本っぽくしてみようと思う。くそ時間かかりそう。だけど面白そう。昔の考えと今の考えを比べる良い機会にもなるし。題名は「20歳になって~一大学生の人生観~」てきな(笑)恥ずっ!おもろいおもろい。昔自分で曲を作ったとき並みの恥ずかしさがあるな(笑)
討論会と最近思うこと
この前の日曜日は討論会でした。
前から書いていた論文のやつです。
結果は優秀賞もらいました。
ゆーても3チームしか出ていなかったんですけど(笑)
しかし、今回の討論会にでて思ったのが、まだまだ勉強不足だなということです。
知識不足ももちろんありますが、それ以上に討論力がない。発言はできるんだけど表現力がないというか、説得力がないというか、自分の思っていることをうまく伝えられない。プレゼン力がないとでもいうんだろうか。
とにかく話し方をもっと勉強しなければと思った。難しい。これは生きていく中で必ず必要な力だと思う。
ただ自分の思っていることを伝えるのではない。人を惹きつけつつ、説明しなければいけない。ユーモアも必要。勉強が必要。
最近いろんな人に会って話すことが多い。人それぞれいろんな考えを持っているけど、同じことを話していたとしても人によって人によって説得力がぜんぜん違う。その人の話し方でその人に対する評価が大きく変わってくる。どんなに分けわからないことを言っていたとしても、話し方しだいで人を説得することができる。
これは僕が思うことだが、でも逆にどんなに話し方がうまくても、コイツ知識がないなと思ってしまうことも事実。自分が話すのがうまいばっかりに、自分が知識ないことすらわかっていない人もいる。
知識とトーク力の両方が大事。
これが今回討論会に出て思ったこと。
もうひとつ最近思ったこと。
最近企業家支援をしているというサークルを見学しに行って、そこのサークルの人といろいろ話をした。なんか徹夜でマージャン打ったりして4時間ぐらい丸々代表と二人で話したりもした。そんで思ったのが、やはり人っていろんな人がいるなと思った。正直そのサークルの方々がかなり頑張ってサークル活動していると思う反面、考え方が偏っていると思ってしまった。「自分何様やねん」と思われるかもしれないけど、思っちゃったんだからしょうがない。自分が頑張っているということに自己満足している気がした。確かに自己満足は悪くない。だけどそこにいる人たちは、みな成長したいと思っている。そんな中で、そのような自己満足の状態に陥ってしまうのは、本末転倒だ。それがよくない。これはあくまでもぼくが思ったことだけど、ぼくはそんな中に、いていいのかなぁと思ってしまって、結局入るのはやめた。これが良かったのかはわからん。入ったらめっちゃ面白いことがあったかもしれないとも思う。
でも今回こーいうサークルを見学しに行って思ったのは、自分自身を客観視するのは、非常に難しい。特にコミュニティの代表とかになると、なおさらに難しい。
正直改めて証券研究会にいる人たちの能力の高さに気づいた。そこの差はなんだかは、わからない。
でも少しこの差かも思うのは、何事も偏ってはいけないとなんとなく証券研の人たちはわかっているのかもしれない、それが差なのかもしれない。結局自分の人生で何が一番重要かをわかっているんだと思う。つまりなにをやれば、自分にとって幸せかを常に考えているんだと思う。無意識に。どんなに頑張ってもそれは必ずしも自分の幸せにはつながらないということをわかっているんだと思う。
そんなこと言っても幸せなんて人それぞれだし、ぼくがこう思うのは、ただ証券研の人たちが思っている幸せとぼく自身が思っている幸せが一緒だからかもしれない。ぼくが見学しにいったそのサークルの人たちにとっては、そこでの活動が一番の幸せなのかもしれない。
それでもやっぱり思うのは、自分の幸せについて考えるのは重要だということ。人が幸せになりたいと思うのは、誰もが疑えない真実。この幸せは一時のものじゃなくて、一生を通してのもの。これはやっぱり考えたほうがいいと思う。まぁそれも程々にがいいのかな。
彼女
彼女欲しいと思って、できる彼女なら意味がないんじゃないかって思った。
もうバイト先でわけ分かんないくらいカップルが出来てる。いや全然よいと思うよ。
でも端から見てると、まぁ羨ましいと思う反面、なんちゅーか逆になんでそんなに付き合いたいわけ?と思ってしまった。
僻みかこれは(笑)
ある意味末期かも(笑)
小さいときに、友達の親に、『女の子に告白されたときに、小学生同士で付き合うってなにするの?って聞いてみ』って言われた。当時のぼくは、まぁまぁモテていて告白されることも多かったんだか、この言葉は核心をついていると幼いながらも思った。
つまり、女の子はよく言う『恋に恋してる』んじゃないのか?ということ。付き合うっていうそのシチュエーション自体に満足しているんじゃないか?。
確かに大学生にもなれば、小学生とは違う。お金もあるから、一緒に旅行もできるし、SEXもできるし、やろうとすれば同棲だってできる。
でもそれは、なんか自分のなかで、女の子と付き合いたいと思っている理由と違う気がする。
これは多分、『付き合う=結婚か?』って問いに行きつくんだと思う。
『付き合うメリットって何ですか?』
ぼくの先輩は言う。
『ただでSEXができる』
これは一つの答えだと思う。いわゆるセフレというのかもしれないが、人間同士が性欲を処理をするうえでは極めて合理的な付き合い方だと思う。セフレを否定することは、風俗、AV等も否定することになるだろう。
付き合う=結婚か?
これに対する答え本当に人それぞれだと思う。
絶対に正しい答は存在しない。
最初に書いた、
彼女欲しいと思って、できる彼女なら意味がないんじゃないかって思った。
と思うっていうことは、自分は『付き合う=結婚』っていうのを少なからず思っているんじゃないか。思っていないと思っていても心の奥底では思っているのかもしれない。
って思った。
彼女とかどーでもいいー!!!!!!
なぜグラビアアイドルなのか
これは、難しい。
グラビアアイドルをただエロい目で見ているだけなのだとしたら、
AVを見れば良い。
ここで、グラビアアイドルの方が質が高いという意見もあるが、ぼくはそんなことはないと思う。
今のAV女優はかなりレベルが高い。それはグラビアアイドルに引けをとらない。
さらに美人系もいれば可愛い系もいて、かなりバラエティーにも富んでいる。
では、なぜグラビアアイドルなのか?
一つには、社会的に受け入れられているからだ。法的な規制もあるが、やはりAVまで行くと公では受け入れられづらい。コンビニに行くとよく分かるが一般の週刊誌や少年誌の表紙にはグラビアアイドルが使われている。
2つめは、男の好みが多様化しているから。そもそも着エロと分野があるように、グラビアアイドルとAV女優の間に垣根があると考えているのが間違いかもしれない。ただ単純に、女性に対しての理想が人それぞれで、グラビア好きな人もいればAV好きな人もいる。つまりは、ただ消費者のニーズに応えてグラビアアイドルが存在しているということだろうか。
3つめに、男が求める理想の違いだ。おそらく男は女に対して2つの願望を持っているのだと思う。純情で貞操的な女性らしくあってほしい願望とそんな女性が猛獣のごとく本能のおもむくままの姿を見たいという願望。この相反する欲望の間に板挟みされるような気持ちで、男はグラビアやAVを見てしまう。その男の両方のニーズに応えるためにグラビアがある。
4つめに、グラビアはAVの前段階としてあるから。人間は同じ刺激をずっと与えつづけるとそれに慣れてしまい、刺激が刺激でなくなってしまう。具体的には、グラビアとAVの刺激度を比較したとき、
グラビア<AV
である。これは間違いないと思う。AVばかり見ているとそれに慣れてしまいAVが刺激的でなくなってしまう。しかし、AVのあとにグラビアに回帰することで、また次のAVも刺激的に見れる。つまりはグラビアがあることで、刺激のあるAVを永続的に見れるというわけだ。
以上でなぜグラビアアイドルなのかについては終わり。
ぼくは、グラビアを肯定的に捉えている。しかし、グラビアなんかつまらんしいらん、AVだけ見るっていう人もたくさんいると思う。
グラビアアイドル市場とAV市場の大きさを比べたら、正直どちらが大きいのかはわからない。もしかしたらAV市場のほうが大きいかもしれない。
そう考えると、グラビアアイドルはあまり必要ないのかもしれない。テレビに出るのもAV女優が出ればいい。むしろそっちのほうが面白いかもしれない。
そもそもグラビアもAVもその存在する意味は、男性を癒すためにある。
悪い言い方かもしれないが、バランス良くどちらの存在も利用して、癒されることが重要なのだろう。